BAD/倉阪鬼一郎

倉阪鬼一郎氏の長編インモラル・ホラーです。



インモラル・ホラーと銘打っているだけあって、世界観がめちゃくちゃです。老人虐待殺人拷問身分差別フリーセックスなど、読者の生きる現代社会においてはタブーとされている事象がすべて肯定されている世界で暮らす登場人物たち。死ぬことこそが最高の快楽と定められているこの世界で、若者たちは世界の秘密を知るべく動き始めます。



この作品、まあ登場人物がコロコロ死にます。しかも死ぬことが最高の快楽の世界なので、みんな絶頂しながら死にます。ついでに性に関するモラルなんか一切ないので、どいつもこいつもそこら中でセックスしてます。人間の欲望の箍が外れるとかくも恐ろしいことになるということを弩ストレートな表現で表しています。



そして、この世界の倫理観から外れた思想の持ち主はバンバン"粛清"されます。登場人物は夢の中まで監視されており、世界に合わない人は排除されます。この世界では「過去について過剰に学ぶこと」「愛や恐怖を感じること」は禁忌とされており、後者に関しては「未開の感情」とさげすまれています。20世紀には常識とされていた「人の命は地球より重い」といった言葉は身の毛もよだつほど気持ち悪い言葉として認知されています。



後半では世界が一気に膨張し、なぜこのような世界が作られたのかの解説が行われていますが、その描写がまた見事。なぜこんなありえない世界が成立しうるのかが、多少速足ながらも理路整然とまとめられています。

ネタバレ

実は登場人物が暮らしていた社会は未来の日本の一部だったのです。彼らが暮らしているのは隔離された場所にある「内側の世界」。その外側には「」というイデオロギーを前面に押し出したファシズムが支配する徹底的な管理社会が構築されています。



なぜこのような内側と外側の世界が作られたのか。作品内の日本は21世紀冒頭に「」を超越する技術を手に入れました。死者の数は激減し、たとえ不慮の事故があっても容易に再生することが出来るようになりました。



しかし、死ぬ人がいなくなるということは人口が増え続けるということでもあり、食糧不足や土地不足など新たな問題が発生するようになりました。



ここで日本のファシストたちは新たな選別システムを作動させます。死を超越する技術の恩恵にあずかれる人間の選別を始めたのです。「愛」というイデオロギーに支えらえた日本国家の思想に少しでもそぐわない人物、危険思想の持ち主、犯罪者は即排除。



明るく平和で笑顔の絶えない平等で愛に満ちた犯罪のない理想社会」の一分子になれない人間は、個人監視システムによってことごとく排除されていきました。



一方、キリスト教的観念の呪縛がある欧米諸国は「死」を超越する技術が手に入れられず、日本の技術の発展を表向きは否定していました。しかし、その裏では日本と手を結ぶ道を選び、日本が生み出した副次的な技術はこっそりと手に入れつつ、表面上は日本を非難し続けます。



日本はまもなく鎖国体制に入り、独自のファシズムを発展させます。理想社会の一分子になり損ねた人間は、「内側の世界」に放り込まれ、記憶を書き換えられて外側の世界の見せ物になリます。内側の世界はテレビを通じて、外側の愛と平和の満ち溢れた家庭に公開されます。



外側の人間は安全な場所にいながら内側の世界に対して正義の拳を振り上げ、自分がいつか内側の世界に放り込まれるかもしれないという恐怖を封殺して、溜飲を下げることが出来ます。外側の人間はもはや考えることを放棄しており、国家の意のままに操られています。



一方、内側の人間は外側に世界があることも、すべてを監視されていることも知らず、自分たちが世界の中心にいると信じて疑わずに殺人と快楽にふけっています。この徹底したアメとムチにより、日本はついに理想的な社会を構築したのです!

感想

内側の世界も外側の世界も現代の人間からすればそれは恐ろしく気持ち悪い社会ですが、倉阪氏が真に伝えたかったのは「外側の世界」の恐ろしさなのではないでしょうか。



誰だって犯罪に巻き込まれるのは嫌ですが、犯罪の全くない国家は本当に人間らしい国家といえるのでしょうか。愛と平和というだれも否定できないお題目を前面に掲げて、人間が人間を管理することは正しいことなのでしょうか。



そもそも、愛と平和は本当に誰も否定できないものなのでしょうか。イングランドの哲学者、トマス・ホッブスは人間の自然状態を「万人の万人に対する闘争」と呼んでいます。人間の本質は愛や平和などではなく、「血と闘争」にあるのかもしれない……そんなことを考えました。

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